追憶と踊りながら

最近書く文章のタイトルに踊るという言葉を使いがちだ。仙台に居た頃、わたしはダンスに夢中だった。今のわたしを知っている人からすれば、想像もつかないと思う。

朝昼晩とiPodに入れたダンス動画をみてバス通学した高校時代。部活後も友達と練習し、ダンススクールに通った。けれど本質的にはダンスをするには向いていない性格、踊るのに向き不向きなんて!と今では思うけれど表現することや自分自身をさらけ出すことはそもそも苦手なほうで、当時は劣等感に苛まれてばかりだった。本当は鏡を見ることさえも苦手なのに、よく当時は鏡をみて練習できていたなあと思う。それでも踊っていたのは、足の裏が急に地面の上で弾んだあの心地を知ったから、そして言葉とは別の手段で表現するこの方法に、いつまでも興味があったからだろうか。

鏡はなくても、夜になれば窓に反射した姿、シルエットをみて練習をした。泉中央の駅ビルや青年文化センターが定番の場所。青年文化センターのパフォーマンス広場という場所では、ダンサーたちの他に楽器を練習する人、ジャグリングの練習をする人など様々な人たちが集っていた。そして一人、とあるおじさんと同じ大きな窓に居合わせることが多かった。その人は社交ダンスの練習なのか、両腕を広げ、背筋を伸ばして姿勢を正し、一定のリズム右へ左へと進んでいく。両腕の先の相手はいつも不在だ。このおじいさんは誰か(妻や子供、かつての恋人)を思って踊っているの?なぜいつも基本の動きしかしないんだろう?いつも勝手な想像を膨らませていた。
ダンサーらしからぬことだけれど、心の奥底では人目が苦手で引っ込み思案という性格のわたしにとって、外で練習することはあまり好きではなかったけれど、このおじさんの横で練習することは謎めいていてとても好きだった。
今でもなぜかふと、おじさんのことを思い出す。あの場所で、だれかを思って踊ってるの?と。

人前に出て、振り付けや構成を考えて踊るということはやっぱり向いてないし出来ないと思うけれど、不思議と今はいくらでも好きな音楽で、自分の好きに踊ることができる。好きな音楽にただ身を任せて踊っている時、ダンスをやってきて本当によかったなと感じる。劣等感に苛まれ続け、葛藤した日々もあったけれど、仙台の街角で踊った日々と、この時共に踊った友人たちに気づかされたことは多かった。友人たちはヒップホップカルチャーをずっと深く研究していたし、当時から黒人差別や女性蔑視について知ろうとしていた。チームを組んでいた2人とはお家クラブした?と報告しあうのが口癖で、(家を暗くして好きな音楽でただ思いのままに踊りまくること)これが基礎練とは別として、最もダンスが上達する方法だった。自分らしくいられる瞬間というのが重要なのだということ。観客も居ない、自分の姿も見えない、けれど音楽と自分の内なるものを最も自分の感情に素直に放出する。目の前にいる人に魅せるだけがダンスではないのだと知った。青春時代というか、いわゆる多感な時期にダンスをして、散々葛藤をしてよかったと思う。

仙台を離れて6年が経つ。青年文化センターのある瞑想の松通りは今も空がひらけてる?台原森林公園にホタルはまだいるのだろうか。あの通りの感じ仙台に似ているなあとか、東京に居てもいつまでも街の断片と暮らしている。曲がかかればあのおじさんのようにひとりで踊る。相手は不在でも、自分自身をかたちづくってきたあの街の記憶と共に踊り続けている。

WRITTEN BY
河村 実月
1991年仙台出身。文藝誌「園」主宰。詩の発表やzineの制作、エッセイ・コラムなどの寄稿を行う。東京都北区王子に「居間」をひらき、展示やイベントなどを開催。現在はあたらしい場所を構えるべく準備中。 Instagram @mzk_kwmr
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