ここなら良いな、という場所を見つける

中学生とか高校生のとき、仙台駅やアーケードに遊びにいくことを「まちに行く」と言っていた。誰が言い出したのだろう。今の中高生もそんな表現を使っているのだろうか。

「まちに行く」ことは一大イベントだったはずだが、さてどこに行っていたのだろう。イービーンズには行った気がする。ハンジローの透明な袋を持っている友人が羨ましかった。ハンジローはやけに店内が薄暗かった。気に入って買った古着も、明るいところで着てみたら全然似合わなかった記憶がある。フォーラスにはタワレコが入っていた。タワレコと別フロアの服屋さんを覗いたとき、その値段に「輸入盤のCDが何枚買えることか…!」と驚愕したのも懐かしい。パルコはまだなかった。地下駐輪場に停める50円が勿体なくて、路上に自転車を停めていたら撤去されかけたことも覚えている。街中の移動には自転車が便利だけど、行った先で停めにくいのは今も変わらない気がする。

些細な出来事と共に思い出すのは、「まちに行く」ことが怖かったというか、ひどく緊張した記憶だ。漠然と「まちに行く」という行為に対して強い憧れはあったけれど、いざ行ってみると自分は馴染めないような感覚を覚えて帰ってきたものだ。

今では好きな時に「まちに行く」ことができるが、さてどこに行っているのだろう。セレクトショップにはいつからか似通った色とデザインと値段のオリジナル商品ばかりが並ぶようになった。まぁ良いんだけどグッとこないなぁ…なんて思いながら、あっちも覗いてみるかとうろうろしているうちに疲れてしまうのはいつものことだ。

静けさが恋しくなって、アーケードを避けて歩いていると、ペデストリアンデッキの端っこにいた。視界にはアエルやパルコ。スクランブル交差点に、タクシーの行列。駅はすぐそこだけど、ここはちょっとひっそりとしていて、余白みたいな場所にいる。ここなら良いな、と思う。手すりにもたれて、行き交う人や車を眺めながら、首を回したり深呼吸したりする。

今のまちが賑わっているのか、見せかけの喧騒なのか、よく分からない。賑わっているまちの中に自分もいたいかと言うと、そうでもなかったりする。大人になってもまちに馴染めていない。けれど、ここなら良いな、と思う場所はある。これからもどこか余白のあるまちであってほしいと願っている。

WRITTEN BY
セロリ
仙台育ち。本は新品を買って読みたいひと。フランシス・ハのように、街を踊りながら駆けてみたい。 @celery_shakushaku
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